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法律コラム

2025年09月

お叱りを受けるかも知れませんが

弁護士をしていると、何とも対応困難な場面にちょくちょく出くわします。
その理由のひとつに「立証」の問題があります。例えば「○○である場合には△△とする」と法的に規定されており、それ自体は誰の目から見ても是認できるものであるとします。ただ、問題は、それ(法律要件たる「○○であること」)を立証できるかという問題にあります。それが困難極まりない場合がちょくちょく発生するのです。その結果、立証ができないからという理由で、望んだ結果(法律効果)を得られないということになってしまいます。真実を知る当事者にとっては、耐えがたいことです。嘘をついている人が得をしていると感じるからです。
また、道徳的な価値判断と法的な価値判断が必ずしも一致しないことも難しい問題を生じさせます。結果として「悪いことをしておいて、賠償しなくて済むのか」といったフラストレーションを生むからです。道徳的観点から「非」という評価を受けるもののうち、特に悪質な一部だけ取り出して、法的に「非(違法)」との評価を与えて規制しているためであり、それ自体は決して理由のないことではありません。歴史的な理由もあって、現在の日本では、法が道徳に必要以上に深く介入すること(特定の道徳観を強要すること)を嫌うのです。ただ、当事者さんに大きなフラストレーションとなることは、立証の問題と同様です。
そうした事態に直面すると、我々も対応に窮します。ただ、立場上、無理なものは無理だと伝えざるを得ません。経験上、そこで躊躇しても良い結果を生みません。
そんな時、私は、よく「あんなことをしていると、その報いを人生の中できっと受けることになりますよ」といったお話しをします。別に単なる慰めでそのように申し上げているつもりはなく、そう感じているから、率直にそう申し上げているに過ぎません。どう生きるかということによって、その人生は規定されていく、貧しい生き方をしていると、人生はそのようにして限定されていくと私は感じます。ご本人が自覚するしない(痛みを感じる感じない)とは無縁の、自分自身にも当てはまる避けがたい問題として。そう考えると、「人生の収支はバランスしている」し、目先の、ある意味では技術的な理由でもたらされる不本意な結果に拘泥するのも、「何だかなぁ」という気にならなくもありません。それで上記のように申し上げるわけです。理屈の問題として。
ただ、そう申し上げても、「まあ、本当にそうならいいんですけどね(期待できませんね)」「やれやれ」といった様子をされる方がやはり多数です。当然ですね。人々が我々に求めているのは、自らの要求の現実的な充足であり、法的な勝利です。人生論じみた理屈で当面の問題は解決しないし、とても納得できるものではありません。
では、一体どうすれば良いのか?
途方に暮れてしまいます。
God Only Knows
そういえば、先日、Brian Wilsonが亡くなりましたね。合掌。