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法律コラム

2024年04月

旅行は楽しいですね。

先日、2泊3日で長崎まで家族旅行に行ってきました。前に行ったのは結婚して間もないころでしたので、かれこれ20数年前のことになります。当時と比べ、駅前がとても立派になり、観光地の整備も進んでいました。それにしても、日本中どこに行っても外国人観光客が多くて驚きますね。
あいにくの雨でしたが、とても充実した楽しい旅行になりました。一番印象に残ったのは大浦天主堂と浦上天主堂で、そのほか中華街でご飯も食べましたし、出島やグラバー園、孔子廟、平和記念公園も見学することができました。隈研吾設計の長崎県美術館にも行くことができました。やり残したのは、軍艦島を見学することと(雨で見学ツアーが中止。ただ、その代わりに市内にある軍艦島デジタルミュージアムに行きました)、ロープウェイで稲佐山に登ることくらいでしょうか(雨で視界不良のため断念)。軍艦島ツアーのために取っておいた時間は、レンタカーを借りて波佐見まで焼き物を見に行ったり、その帰途嬉野温泉に寄ったりして色々と楽しみました。情緒ある市電にもたっぷりと乗ることができましたし、何とも不思議な乗り継ぎの西九州新幹線にも乗ることができました。いやはや何ともよく遊んだ。
次は、公務の東京出張があるので、自費で前泊するなりして、色々楽しんでこようと目論んでいます。四谷のジャズ喫茶、新宿のレコード屋、上野の美術館etc。そう言えば、名古屋でも、札幌でも、仙台でも、横浜でも、神戸でも、旅行や出張にかこつけてレコード屋巡りをしていた。もちろん日頃から京都のレコード屋やネット通販でも色々と買っています。おかげでCDやLPが好き放題に増殖して、その置き場所に頭を悩ませています。宿痾ですかね。
ちゃんと仕事をせねば。

先月と同じような話ですが。

前回のコラムをアップしてから、妻と一緒に女性ミュージシャンの弾き語りライブに行きました。その方(彼女)は、私がまだ資格試験を受けていた20代初めころにデビューし、一時、京都のFM局で番組を持っていました。話が面白く一生懸命聴いていましたが、番組が終了してからは、たまにCDを見かけたら借りたり買ったりする程度で、それほど熱心なファンといったわけでもありませんでした。それより妻の方が彼女のことを気に入っており、折に触れてはCDを聴いていました。
そうして実に30年近くが経過し、色々な事情が重なって彼女のライブを見ることになりました。50人も入れば一杯になるくらいの狭い場所で、満席になっていました。それなりに年配のお客さんが多いようでした。
ステージに姿を見せると彼女は30年分しっかり年を取っており、私が「おっちゃん」になったと同様、きっちり「おばちゃん」になっていました。そして最初の曲が終わって、挨拶混じりのトークになると、「先月57歳になりました。よくぞここまで生き抜いた! 皆さんと乾杯です! その思いで今日はこの曲を一曲目に持ってきました!」などと話し始めました。周りを見ると目頭を押さえている中年の女性がおり、鼻をすするような音が聞こえました。皆同じように感じて生きているんだなと思いました。心が動きました。
彼女は、提供曲で少しブレイクしたことはありましたが、それでも広く一般に名を知られるほどでもなく、その意味では地味なアーティスト人生を歩んできた人でした。しかし、彼女は今でも毎年いくつかの決まった都市で何本かのライブを続けており、そこには熱心なファンが全国から集まって、チケットをソールドアウトにしているようでした。それは、とても見事な達成であり、素直に羨ましい人生だと思いました。それは「音楽の持つ力」をとても強く感じさせられる場面でもありました。見ず知らずの人の心を動かし、涙させることができる、時に時空を超えてそれができるなんて、本当に奇跡のようだと思いました。
こうした豊かな感情体験を通して、皆が前向きで寛容な精神を養うことができればと思います。自己を省みることなく、いたずらに他者に批判的になったり、攻撃的になったりするのではなく。
結局、前回と同じような話になってしまいましたね。

年はとったが。

ここ数年「年をとったな」と感じることが多くなりました。
親が年をとったこともありますし、子どもが成長したこともあります。普段、1人で仕事をしていることが多くて、そんなに感じる機会はありませんが、たまに弁護士会に行くとちょっとしたベテラン扱いを受けたりすることもあって驚きます。
依頼者さんとの関係も当然変わってきました。若いころは、依頼者さんは自分より年上かせいぜい同年代といったところでしたが、今では年下の方も多くなってきました。それも下手すると親子ほど年が離れていたりします。そんな年になったのか。
現在、20代前半の女性(まさに子ども世代)の事件をいくつか手がけていますが、彼女たちは本当にしっかりしていて驚かされます。地に足が付いており、覚悟も出来ていて、大したもんです。自分が同じ年頃だったころのことを思うと、その余りの違いに驚くばかりです。
ただ、レベルこそ違えど、私も、その年頃には自分なりに必死に人生と格闘していました。家に一人籠もって、合格するあてもない困難な試験に黙々と取り組んでいました。それはかなり孤独な作業で、精神的にもきつい時期でした。今ではとてもそんなことはできません。そうした経験は自分にとって糧となり、生きる指針となりました。
その後も色々ありましたが、何とかこれまで無事にやってくることができました。特に誇れるほどのこともありませんでしたが、それなりによく頑張った。そう自分では感じています。「お互いよくここまで頑張ったよな」と同世代と讃え合いたい気分です。
まあ、これからも迷いや苦しみはずっとつきまとうでしょうが、何とかそれをやり過ごして、生きていかなければなりません。いささか気が遠くなりますが、何とかなるのでしょうか。
逆に、若い世代は順繰りに、我々と似たようなことを感じつつ、前に進んでいくのですかね。息子を含めこれからの世代が、自ら力を得て生き抜き、無駄に辛い目に遭うことのありませんように。
GOD BLESS THE CHILD

今年もよろしくお願い致します。

遅ればせながら、あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い致します。
新年早々世間では色々と大変なことが続いており、何ともやりきれない思いがしています。どうしてこんなことが起きなければならないのか。
自分も年をとり、訃報で自分よりも年若い方を見かけるようになってきました。そうした訃報に接すると、より一層残念な気がしてなりません。ご冥福をお祈りするばかりです。
ただ、そうであるからこそ(変な接続詞ですが、これが実感)、生きている者は、できるのであれば前向きに、そして他者には寛容に、少なくとも他者にできるだけ害をなさないように心がけて、誠実に生きなければなりませんね。それが他者への礼儀のように感じています。
話は少し変わりますが、毎年、NHKの番組で「たなくじ」という籤を引いています。これは次々に切り替わる場面にスマホをかざして写真を撮るというもので、そこに映った画面でその年の運勢を占います。今年は「もち吉(粘り強い吉)」でした。その意味するところが今ひとつピンときませんが、まあ悪いことはあっても、全体として見れば吉なのだ(粘り強く何とか吉の状態が保たれるのだ)ということなのでしょうか。そうであれば悪くない。元日から自転車の変速ワイヤーが切れて、重いギアで坂を上るという苦行もありましたが、年末に落ちている釘を踏んで穴の空いた買ったばかりのタイヤは何とか復活できた。ちなみに去年は「卯(う)るとら大吉」でした。ただ、確かに大きな良いことはありましたが、それほど(ウルトラ)でもなかったような。あんなことも、こんなこともありましたし。まあ、有難味が分かっていないだけかも知れませんが。
とりあえず、今年も家族ともども健康に心がけ、平穏な一年を過ごせればと願っています。幸い、家族は全員今のところ元気で、そこそこ仲良く暮らせており、まあ、それが何よりです。
今年も宜しくお願い致します。

色々と物思う一年でした。

今年は、仕事でもプライベートでも様々なことがあり、色々と考えさせられる一年でした。そんな中で強く感じたのは、やっぱり我々は対人関係の中で生きているのだな、そこに喜びも悲しみもあるのだなということでした。そして、人とかかわる中では人の不幸にも遭うことになりますが、結局のところ、我々に出来るのは、できるだけ誠実にと心がけて人と接するしかないという思いでした。自分に後悔を残さないためにも。
また、仕事柄避けがたい面もありますが、できるだけ関係する人が無用な後悔をすることがないようにとも改めて思いました。
随分前の離婚事件で、お母さんが、別居中のお父さんに、絶対にお子さんを会わせようとしないケースがありました。お子さんたちがお父さんに会いたくないと言っているからというのがお母さんの言い分で、それを証明しようと、お母さんは、お子さんたち(上のお姉ちゃんは高校生で、下の弟は中学生でした)に、どれだけ強くお父さんを拒絶しているのか手紙を書かせ、それを証拠として提出していました。お子さんの気持ちもありますし、将来の父子関係に無用なダメージを与えるのではと感じ、私は相手方弁護士に何とかならないのかと申し入れましたが、お母さんの対応は変わりませんでした。この事件では高等裁判所の段階で家庭裁判所調査官が面会交流の調査に入ることになりました。その一環で調査官がお子さんたちに直接会ってお父さんへの思いを確認したところ、お姉ちゃんはともかく、弟はとてもお父さんに会いたがっていることが分かりました。弟は、お母さんの気持ちも考えて、お母さんの前では言えなかったんですね。その結果を踏まえ、弟とお父さんの面会交流は実施できるようになったのですが、最後までお姉ちゃんの方は無理でした。そこで事件は私の手を離れたのですが、程なくして、お父さんが若くして急にお亡くなりになってしまわれました。その時に私が感じたのは、「ああ、これでもう取り返しがつかない」「娘さんが将来引き摺らなければよいんだが」ということでした。娘さんが、成長するにつれて、無用な自責の念に苛まれるようになるのではと心配になりました。もちろん父と娘がどんな関係だったか私には分かりませんし、お父さんにしてみれば「自業自得」だったのかも知れません。でも、それはともかく、娘さんについて、そんな心配をしなくても済むよう、もっと「ましなやり方」を我々大人はできたのではないかと思わざるをえませんでした。そんなことも思い出した一年でした。
生きていれば自然と年はとりますが、なかなか賢くはならないし、「不惑」の境地にはとても到達できそうにありません。ただ、来年こそ、少しは心乱されることなく過ごせるようになりたいものです。

それでは皆様良いお年を。

身辺雑記 (2023/11)

この一月ほどバタバタしていて、コラムについて考える余裕がありませんでした。大したことを書いているわけではないのですが、ある程度集中できないとうまく書けないので、今回は軽く身辺雑記のようなものを。
1 ここのところ、西洋美術をテーマにした動画を見て楽しんでいます。これまでは妻に誘われるまま、特に知識もなく美術館に行って絵画等を見て楽しむだけでしたが、最近は背景等について予め知識を仕入れて、そうした情報も含めて絵画等を楽しんでいます。性格的なこともあるかも知れませんが、知識をもったうえで見た方が私は楽しめるようです。先入観は邪魔になるので、注意しないといけませんが。
別の話ですが、今年も家族で正倉院展を見てきました。決まったイベントを通して年月の経過を感じられるのは、何とも心豊かなことですね。昔の写真を見るとまだ息子が幼かったり、自分も妻も若かったりして、色々と感じるところがあります。戻りたくはないですが。
2 息子がようやく進学し、大学というものがまた身近になりました。幸い、息子の通う大学は自宅からそんなに遠くないので、たまに休日に一緒に生協に行って、安い定職を食べたりして楽しんでいます。昔も今も変わらぬ光景。息子の大学で驚くのは、何と言っても自転車の数が凄いことです。私の通った大学は山の中腹のような場所にあったので、とても自転車どころの話ではありませんでした。平地にある大学は良いですね。
3 ようやくゲーム漬けの日々が終わり(実に1タイトルで200時間以上やりました)、音楽生活に戻ってレコードを楽しんでいます。京都のレコード屋は、土地柄か外国人観光客が結構多く、おかげで一部のレコードの相場が一気に上がってしまったような気がします。若い人の姿も最近目に付くようになりました。レコードの復権を実感します。その反面、面白いCDが手に入りにくくなってしまい、これも痛し痒しです。
4 先日、久しぶりに京阪本線に乗って京都の三条から大阪の京橋の近くまで行きました。親戚が大阪の寝屋川に多いので、昔はちょこちょこ乗ることがありましたが、最近は用があってもほぼ車なので(特に第二京阪が出来てからは)、ほとんど乗る機会がありませんでした。電車に乗るとしてもJRばかり。久しぶりに京阪本線に乗って、駅数が多く、駅間の距離がとても近いのと、電車の種類(普通/準急/特急等)が多いことに驚きました。田舎者丸出しですね。でも、京阪沿線って独特の雰囲気がある。
5 この間、色々な市役所に行きました。大津市役所(いくつかの支所)、京都市役所(山科区役所)、大阪市役所(北区役所、城東区役所)、寝屋川市役所、四條畷市役所、守口市役所…。似たようなことしかしていませんが、かかった時間は区々でした。昔に比べて、概してとても親切で利用しやすくなっています。まあ人次第かとも思いますが。

本を読むこと。

旅行帰りの飛行機で時間を潰すため、スマホのアプリで夏目漱石の「門」を再読したことがきっかけで、ここのところ珍しく読書に励んでいます。「それから」「彼岸過ぎまで」と読み続け、先日「行人」を読了しました。以前、「三四郎」と「こころ」は何度か読んでいるので、これで前期三部作と後期三部作を読破したことになります。現在は未読の短編を読み進めています。
私は、若い頃からあまり読書をするタイプではなく、小学校のころは「ルパン」や「ホームズ」のジュブナイルくらいで、中学に入ってようやく司馬遼太郎を読むようになったくらいでした。高校のころも、現代国語で面白いと思った中島敦(「山月記」)や夏目漱石(「こころ」)、海外のミステリー(クリスティ、クイーン)を読む程度で、そんなにまとめて本を読むことはありませんでした。大学に入ってから村上春樹を読むようになり、色々な面で影響を受けましたが、司法試験の受験時代は、難しい専門書ばかり読んでいた反動で、主に国産のミステリー(いわゆる「新本格」もの)を楽しむ程度でした。そして、仕事をするようになってからは、なかなか書物に手が延びなくなりました。ですので、とても読書家とは言えません。
妻は、幼いころからかなりの読書好きで、夏休みには「新潮文庫の100冊」を読破しようと目論むようなタイプだったらしく、今でも「根気が続かない」「文字が小さくて読みづらい」と言いながら熱心に本を読んでいます。
息子も、妻の影響か大変な読書好きで、小遣いのかなりの部分を書籍の購入に費やしているようです。鞄に何冊も重い本を持って外に出ています。そのため無意味に博識で、大概どんな話をしても、「ちなみにさ…」と何か関連したことを話し始めます。五月蠅いくらいです。
おかげで休日には家族で図書館ばかり行っていますが、私は雑誌コーナーで、雑誌をパラパラやりながら、大量の本を抱えて戻ってくる2人を待っています。そんな2人の様子を見ていると、何か少し羨ましいような気がしてきます。
そんなに本を読んできたわけではないですし、家族の中では最も本に縁遠い生活をしていますが、それでも読書自体は若いころからとても好きです。本を読むことは、音楽を聴いたり、絵を見たりするのと同じで、とても個人的な営みで、親密な喜びに溢れています。それは生きていくうえでの糧となり、心フラットな状態に保ってくれます。物事の前向きな面に気づかせ、極端で独善的な考えから自分たちを護ってくれるように感じます。また、読書することで自分の変化にも気づかされます。同じ本(例えば「こころ」)でも感情移入する対象が変わってきて、若い頃は「私」の方でしたが、今では「先生」の方により強く惹かれます。年をとったということでしょうか。でも、それも悪くない気がしています。
ただ、最近の大手古書店は同じタイトルのものばかり揃っていて何だかいまひとつですね。いくら最高傑作とはいっても、漱石の棚に「こころ」ばっかりというのも何だか興ざめです。それが素晴らしい作品であることに異論を挟むつもりは毛頭ないのですが。

好戦的であること。

私が弁護士をしていて難しいなと思うことのひとつは、どの程度冷静に振る舞い、どの程度好戦的に振る舞うことが、その場その場の状況からして、最も適切なのかということです。
弁護士は法律の専門家ですので、まずは冷静沈着に振る舞うように求められているように思われますし、そうでないと依頼者さんに無用な心配をおかけしてしまうことになりそうです。
ただ、弁護士の仕事には、ある意味では「敵」となる「相手方」がいることが常ですので、依頼者さんを同行しての手続きで、あまりこちらが冷静だと、依頼者さんとしては、熱意があるのか心配になってしまわれるようで、それもまた由々しき事態です。少しくらい好戦的に映るくらいが頼もしく思われるようです。
そこで、最初に申し上げたような迷いが生まれます。
私としては、どんな場面でも、できれば冷静でいて、いたずらに好戦的になることは避けたいと考えており、基本的にはそのように振る舞うようにしています。それが最終的には依頼者さんのためにも有益と感じています。ただ、そうすることで依頼者さんにいらぬ誤解を与えないよう、自らの言動の理由を説明するようにはしています。今のことろ、それが私のこの問題についての基本的なスタンスです。
ただ、こうした事情とは別に、ある程度好戦的に映っても、強く主張することもあります。それは、明らかに不合理なことを一方的に押しつけられそうな状況になっていて、それを絶対に容認できないときちんと明確に伝える必要がある場合です。それが相手方(敵)からのものであれば、いつも通り冷静に反論すれば足りるのですが、問題なのは、それが「裁判官」によるものである場合です。これは大問題です。誤解のないように申し上げておくと、ほとんどの裁判官は良識的で、少なくとも合理的な人たちではあるので、そうした事態には陥らずに済みます。ただ、残念なことに、中にごく少数ですが例外的な方もおられます。そのため、(本当は避けたいところですが)やむを得ないと覚悟して、思い切って抗議しなければならない事態が生じます。
しかし、相手は判断権者ですので、基本的には自分の方に分があるといわんばかりの態度で、「まあ、判断の分かれるところですし、お立場も分かりますがね」みたいな対応で、こちらをまともに相手にしないよう振る舞います。さらっと「いなして」しまうわけです。でも、それではこちらとしては話になりませんので、「そうした問題ではないでしょう」と、いささか好戦的に映っても仕方ないと覚悟して、さらに強く抗議します。それでも裁判官は態度を変えません。「まだ言うのか」という態度を取ります。ここまでくると、こちらも「(自分では優秀だと思っているくせに)不合理なことを言っていることにも気づかず、立場を笠に着て偉そうにしやがって」という気持ちになってしまいます。その結果、余計カッカして強く抗議することになります。
ここまでお話しすれば、お分かりとは思いますが、それでも裁判官は態度を変えません。
ということで、意を決して抗議しても、ほとんど効果らしい効果も生みません。ほんとに馬鹿みたいだと思います。いささかげんなりもします。でも、そうなると分かっていても、立場上、言わざるを得ません。まあ、依頼者さんはとても喜んで下さるのですが。

ちょっと嬉しかったこと。

今回も仕事とは無縁の話です。少し長くなります。
前にも書かせて頂いたのですが、30歳ころから一生懸命に音楽を聴くようになりました。聞いているのは主にジャズで、モダンジャズ一番盛んだったのがちょうどLP(レコード)の時代だったこともあり、たまにLPも買っては楽しんでいました。
当初からレコードは京都で手に入れていました。主に行っていたのは、京都市役所横の古い雑居ビルに入った「ホットライン」というお店でした。大量のLPがリーズナブルな価格で売られていて、年配の店員さんが交代でレジに詰めていました。
CDの方が安く容易に入手できることもあって、レコードから遠ざかっていた時期もありましたが、また5年くらい前から熱心にレコード屋を回るようになりました。また「ホットライン」にも足繁く通うようになりました。
そうしたところ、2年ほど前、突然何の前触れもなく、「ホットライン」が閉店してしまいました。びっくりしましたが、店員さんも皆さんそれなりにご高齢でしたので、仕方ないかと思いました。それからは、レコード屋巡りをしていて、取り外されずに残ったままの「ホットライン」の看板を見ては、何だが切ないような気持ちになっていました。
そうした中、実は「ホットライン」が近くに移転したことを、つい先日、ユーチューブで知りました。いつもの「おじいちゃん」(72歳)が店主で、インタビューにこたえていました。コロナ禍で家賃の捻出もままならなくなって、やむなく37年間やっていたテナントを出て、自宅アパートの一角に店を移したこと、廃業も考えたものの、京都のレコード文化を支えたくて店を続ける決心をしたこと、とはいえ、経済的に苦しいことからクラウドファウンディングで資金を募ったこと、その結果、目標には届かなかったものの、70万円以上の資金が集まったことなどを知りました。
私は何だか胸が熱くなりました。70代になって新しいことに踏み出した、その勇気はもちろん、その思いを受け止めてクラウドファウンディングに応じた人が相当数いたという事実に。
私は、急いで最初の週末、移転した「ホットライン」を訪れて、LPを2枚買いました。それからも何度も足を運んでは数枚のLPを買い続けています。ほんのわずかの金額ではありますが、少しでもお役に立てればという思いで。
ジャズといえば、京都に「YAMATOYA」という有名なジャズ喫茶があります。1970年創業の老舗で、今でもご夫婦で切り盛りされています。店主は80歳を超えていますが、カウンターに入っています。奥さんも同じくご高齢ですが、配膳やレコードの係りをされいます。素敵だなと思います。
こんな風に年を取っても頑張っている人の姿を見ると、私自身とても励みになります。そこに到るまでには、きっと様々な困難があったはずです。それでも意義を感じ喜びをもって仕事を続けて来られたのだと思います。とても難しいことであり、とても素晴らしいことです。

最初は知らないことばかり。

我我弁護士も、最初は知らないことばかりです。でも、色々と事件を手がけ、その中で経験を積んで成長していきます。ひとりの家庭人・社会人として人生経験を積み重ねます。それは、他の仕事と同じです。
確かに、我我の仕事はいささか特殊ですし、それなりに法律の勉強はして司法試験には合格しています。ただ、司法試験の受験科目は、法律全体から見ればほんの一握りのものに過ぎません。社会には膨大な法律があり、実際の事件を処理するには、そうした法律の理解が必要になります。また、対象となる法律が、裁判の場で、あるいは、実際の社会でどのように解釈され運用されているのかという理解も必要不可欠です。そこも試験に合格した段階では、ほとんど身についていません。専門であるはずの「法律」という分野でさえ、最初はこんな状態です。
「社会経験」や「社会常識」という面でも、最初は足りないことばかりです。特に私のように大学を卒業してすぐに法曹の世界に入ってしまった場合はなおのことです。「対人関係」についても同様のことが言えます(ここが最も困難ですが)。年配の相談者さんや依頼者さんから見れば、自分の息子や娘くらいの、ちょっと法律に詳しいだけの社会常識にいささか欠けた人間というように見えているのではないかと思います。その認識に誤りはないと思います。
そんな状態で、「裁判官」や「検事」「弁護士」になるわけですので、考えてみればかなり怖いことです。それでも裁判官や検事は、経験豊富な先輩の指導をこってりと受け、組織的に鍛えられるのでまだマシですが、我我弁護士は様々です。正直ビクビクものであり、「弁護過誤保険が心の支えだ」と豪語している先輩弁護士もおられました(今では立派な先生になっておられます)。
でも、実務に出たら一人前です。「知りません」では済まされませんし、失敗は基本的に許されません。そこで、我我は、現場に出てから必死になって調べることになります。その都度、その都度、必要な法律等の法規を調べ、関連する実社会の手続きを調べ、どう物事を進めるべきなのか考えます。専門家(他の士業の先生方)に意見を求めたり、依頼者さんに業界ルールや事件処理に必要な周辺知識をみっちりと教えて頂きます。そうして、できるだけ怖い目に遭わないようにと必死に頭を働かせるのですが、それでも時には失敗し、痛い目に遭います。すると今度は、それが致命的な失敗にならないようにと、また必死に頭を働かせます。
きりがないと言えばきりがありませんが、このようなトライ・アンド・エラーを積み重ねて、我我弁護士は少しずつ法律家として成長していきます。
また、研修を通じて専門的な知識を蓄えることもあります。弁護士の中には、特定の分野を興味を持って熱心に掘り下げ、希少な経験を積んで、その道の専門家といった力をつける方があります。そうして、その知識・経験を、日本弁護士連合会の会員向け講義を通して、我我一般の弁護士に分け与えて下さいます。地方で仕事をしている私などは、オンラインでそうした講義を受け、必要な知識を蓄えています。
そうして、最初は何も知らないところから、少しずつ成長していくわけです。私も少しは頼りになる弁護士に成長できていればよいのですが。